これは戦争だ

 いつものようにブログを巡回していると、なぜかぽつぽつとトマトの文字が目に入る。

たとえばこちらのブログ(id:kouas1100)。こんなにいっぱいのトマトは成城石井でしか見たことがないのですが、これはいったいどういうことなのか。

答えを求め、はてなブログのトップに飛べばトマトトマトトマト。あっれおかしいな、はてなっていつカゴメに買収されたの?と頭のはてなが増すばかり。

 

ちょっといろいろ眺めてみると、トマトを愛する者とトマトを憎む者が双方のプライドをかけてディスりあっているという御様子。

ある人は「トマトを見たら死ぬ」

またある人は「トマトのために死ねる」

どうやらトマトを中心に死屍累々の様相を呈しているようです。私が更新を怠っているうちにひょっこりサラエヴォ事件が起こってしまったようですが、その戦火は加速度的にひろがり、はてなブログ全体にピリついた空気が瀰漫しているみたい。東に撃たれるものあれば、西に父を想うて泣く児あり。まさにトマトでトマトを洗う惨劇ですが、なぜこんなことになってしまったのでしょう。憲法9条は日本の宝じゃなかったのか。

 

こんな争いなんてもうやめて。なぜ人々は憎しみ合わなくてはならないの。みんな同じ人間じゃないか。しかし枯れるまで涙を流しても、流れる血潮が減ることはない。行動しなくては。書かなくては。そう、私こそが無名の反逆者。

 

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おっとそこのギークボーイズ、落ち着いてくれ。これはウチにあったホールトマトの空き缶を並べているだけであって、新しいアイドルユニットのジャケ写じゃない。

目からリコピンが摂取できそうなjpegですが、この写真からわかるように私はトマトを愛する側の人間。母が自らの子を愛するように、私はトマトを愛している。

 たしかに好きだけど、アイドントライクトメィトゥとヘイトスピーチをかます人の気持ちもわかる。グジュっとした独特の食感はえもいわれぬ気持ち悪さを覚えるというのは理解できる。

だけど俺から嫌トマト論者に言えるのは、おまえらトマトの気持ちを考えたことあんの?っていうことよね。

 

トマト、みんながぼくをそう呼ぶのだからぼくはトマトなのだろう。

多くの家族に恵まれ、太陽の日をいっぱいに浴びてすくすく育っていった。

虫や病気に気をつけたり

お前さ、好きなナス科の植物いないの?と声をひそめて話しあったり

時には拳で語り合ったり

先輩に憧れたり、その先輩が出荷されていくときに気持ちを伝えられなかったり

そんな平凡な毎日を過ごしながら、自分も立派なトマトになって出荷される日を夢見ている。

しかしいざ出荷されてみると、そこに待つのは農協による極めてシステマティックな選別。そこに個性など許されず、用意されるのは秀優良不可という4通りの人生だけ。生まれた株の違いが価値の違い。学歴社会なぞよりもはるかに救いのない運命を背負わされた彼らを見て、あなたがたは何を想うのか。われわれ人間はずいぶんと勝手な都合をトマトに強いているのだ。

そんなもん俺の知ったことじゃない。嫌トマト論者はそう言うだろう。

しかしそうして食卓に並んだトマトを魔女の宅急便よろしく「あたしトマトきらいなのよね」とダストボックスにスリーポイントシュートというのはジョーダンでも許されないはずだ(ダブルミーニング)。目を向ければ、たったひとつのトマトにそれだけのバックボーンがあるのだ。想像力とはやさしさだ。やさしさに包まれたなら、あなたたちもトマトに心を開くことができるはずだ。

 

同じく、トマトを愛する者たちが嫌トマト論者を弾圧することも許されないはずだ。

嫌いな食べ物がない者だけが、彼女にトマトを投げなさい。キリストもそう教えている。

なによりトマトに無慈悲な区別を強いる必要は、ほかならぬトマトを食べる者から生まれている。そのことを忘れてはいけない。今後はより一層の感謝をこめていただかなくてはならない。

 

トマトは戦争の道具じゃない。

 

ジョンが生きていたら歌うだろう。想像してごらん、戦争のない、国境のない、お弁当の隅にプチトマトのない世界を。

 

そしてブログは戦争の道具じゃない。

 

銃が殺すための火器であるか守るための道具であるかを決めるのは、それを使用する者に因るはずだ。我々はこの惨劇から学ばなくてはならない。ブログは決して戦争の道具であってはならないのだ。

 

しかし戦争よりもおそろしいのは、こういった内輪ネタに自分のような外部の人間が顔をつっこむことよね。

 

おわり